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長野家庭裁判所 昭和33年(家)936号 審判

本籍 長野県 住所 長野市

申立人 上山勇(仮名)

国籍 中華民国 住所 台湾台中市

相手方 黄徐芳蘭(仮名)

主文

申立人と相手方間の長男徐応学(日本名上山久雄)の親権者を相手方より申立人に変更する。

理由

申立人は主文と同旨の審判を求め、その理由とする要旨は、申立人と相手方は昭和二十一年五月○○日婚姻し、昭和十九年十一月○日長男久雄(徐応学)を生んだが、昭和二十三年一月○○日久雄の親権者を相手方と定めて協議離婚をした。相手方はその後中華民国人某と結婚して台湾に渡り爾来同地で暮している。申立人は相手方と離婚後引続き久雄と同居し(昭和二十六年十月中一時相手方が久雄を連れ去つたことがあつたが、同年十一月連れ戻した)その監護養育をして今日に至つている。久雄は現在長野市○○中学校二年生であるが、右の如く離婚後十年間申立人において事実上の親権を行使し、久雄は申立人の庇護の下につつがなく成長しており、相手方は親権を行使すること不可能な状態にある。以上のような次第であるから親権者を申立人に変更することが、久雄の幸福と利益をはかる所以と信じ、本申立におよんだというのである。

申立人の戸籍謄本、上山順一の戸籍抄本三通、国籍離脱届写、国籍離脱説明書写、昭和二十七年三月十日附東京家庭裁判所の審判書正本、調査官依田嘉人の調査報告書、申立人および徐応学(日本名上山久雄)……以下事件本人と称す……の各供述によれば、次のことが認められる。

(一)  申立人は大正五年一月○○日長野県○○郡○○村(現在○○町大字○○)で出生、○○商業学校を中途退学して一時自宅で農業に従事した後、大津市の○○○○○○株式会社に工員として勤務し、昭和十年十二月朝鮮の第○○聯隊に現役兵として入営、張鼓峯事件で負傷して除隊し、昭和十五年四月○○工業学校機械補導所に入所、同所卒業後同年十月東京○○陸軍○○廠に奉職、昭和十七年三月判任文官試験に合格し、軍属として南方派遣を命ぜられ、北ボルネオで民政部或は県庁に勤務している中相手方と結婚した。相手方は日本暦大正十一年三月○日(中華民国十一年三月○日)フイリッピンで出生し、十七歳の折ボルネオ居住の華僑と結婚し、一子を生んだが、大平洋戦争の混乱で、夫、子と離れ昭和十八年一月頃からボルネオ○○○○県庁に勤務し、同年七月申立人と結婚した。申立人と相手方間には昭和十九年十一月○日事件本人が生れたが、戦時中のため婚姻届も出生届もなさずに終戦をむかえ、昭和二十一年三月○○日事件本人を伴つて日本に引揚げ、申立人の本籍地に落着き、同年五月○○日婚姻届を、同月○○日事件本人の出生届をなし、相手方は婚姻により日本国籍を取得した。そして一時申立人は古物商を、相手方は洋裁等の内職をしていたが、昭和二十二年二月頃○○町○町に移り、菓子商を開業した。ところが当時食糧その他の物資の配給が窮屈だつた一方連合国人に対しては特配があつたので、申立人等は形式上離婚することにより相手方の外国人登録を受け、親子二人の特別配給を受けると共に、連合国人である相手方の身分を利用して、営業上の利便を得ようと考え、昭和二十三年一月○○日事件本人の親権者を相手方と定めて協議離婚の届出をした。その後暫くの間相手方は申立人と同棲していたが、間もなく事件本人を連れて東京へ出て同地で暮すようになり、申立人と相手方との間も次第に冷却し、互に離別の意思を固めるに至つた。そして暗黙裡に事件本人の監護に関しては申立人があたることの諒解ができ、申立人は昭和二十四年三月頃相手方の許で起居していた事件本人を長野県の自宅に連れ来り、手許で養育していたが、昭和二十六年十月頃相手方は事件本人を東京へ連れて行つた。(これに対し、申立人は同年十一月○○日頃再び事件本人を自宅に連れ戻した)そんなことがあつて、申立人は東京家庭裁判所へ事件本人の親権者を相手方から申立人に変更することの調停申立をしたが、調停不調に終り、同裁判所は、取調の結果将来は格別、未だ親権を変更すべき事情が発生したとは認め難いとして昭和二十七年三月十日申立人の申立を却下した。

次に前記戸籍謄本、戸籍抄本、国籍離脱説明書写および東京華僑聯合会長の戸籍証明書、結婚証書の各謄本、東京入国管理事務所警備調査課第二係長の申立人宛回答書、黄守桂名義の当裁判所宛書翰、前記調査官の報告書、申立人および事件本人の各供述を総合すれば次のことが認め得られる。

(二)  申立人は青木政枝と昭和二十五年一月○○日婚姻し、翌年二月○日長女君子を儲け、長野市に移り住んで引続き菓子商を営み今日に至つたが、次第に業績あがり、現在長野市内の○○○町、○○町、○○の三ヶ所で小売店を経営し、生活も安定し、事件本人を長野市○○中学校に通学させて平穏な家庭生活を営んでおり事件本人の処遇については、その希望通り、大学に進学させて好むところに進ませたいと考えている。又正枝は申立人と婚姻以来事件本人を養育し、実子君子に対すると同様の愛情を懐いている。相手方は昭和二十五年一月○日(中華民国三十九年一月○日)黄守桂と結婚し、昭和二十七年十二月○○日帰国手続を採り、翌年二月○日夫と共に横浜港を出航して台湾に帰り、爾来同地において夫と同棲し、夫黄守桂は現在台中市○区○○○○○○で工場を経営しているが、相手方は昭和二十九年十月頃観光のため台湾へ帰国した長野市在住の朴丙春に事件本人に対する手紙を託した外は事件本人と音信を交したことはなく、申立人および事件本人は東京家庭裁判所における調停後、右手紙および朴丙春により始めて相手方の消息に接したのであつて、その後は再び音信を断つたままである。事件本人は前記審判の後も申立人の膝下で成長し申立人と正枝の監護養育の下に○○小学校より○○中学校に進み現在同校二年生であつて、学業成績もよく、○○高等学校より外国語大学に入学したい希望をもつているが、申立人夫婦によくなつき、申立人等の庇護の下に成人することを希望し、台湾の相手方の許へ行くことは考えていないし、中国語もわからない。そして親権者を申立人に変更することを欲している。

又右認定の事実および取調の結果によれば、相手方には事実上今後も親権の行使を期待できず、仮に行使し得るような事情が生じても相手方は日本語に習熟せず、かつ生活環境等の相違から、事件本人の日常生活、考え方に対し理解し難い点も多いであろうことが推測されるから、事件本人に対する適切な親権行使は期待し難い。更に事件本人は思春期に入り、精神生活の混乱期をむかえる年頃なので、実際上の保護者と法律上の親権者の異ることにつき、思い悩むであろうことが考えられ、延いては劣等感、自己嫌悪におちいる虞がないとはいえないし、間もなく義務教育を終り、ある程度の社会生活をしなければならない年齢となるので、親権者の同意或は許可等の必要の生ずる場合も起り得ることを考えなければならない。これ等のことと前記(一)(二)の事実を合せ考えれば、申立人をして親権を行使させることが、事件本人の幸福と利益をはかる所以というべきである。そして相手方は本件申立に対し黄守桂名を以て、事件本人の親権者を申立人に変更することを一応断る旨の回答を当裁判所によせて来たが、前記朴丙春に託した事件本人宛の手紙によれば、事件本人に対し、母としての愛情を懐きながら、又それ故にこそ事件本人が申立人等夫婦の訓に遵い、真面目に勉強し、立派に成人することをこいねがい、事件本人の幸福のため、秘かに申立人等の愛と善意を期待していることを看取することができるから、相手方も親権者を申立人に変更することをあくまで反対するものとは解せられず、又事件本人の幸福のためにはこれを忍ばなければならないといわざるを得ない。

以上説示の如く、東京家庭裁判所の審判後の当事者双方および事件本人につき生じた事情を考慮し、親権者を相手方より申立人に変更する必要があるものと認め、申立人の本件申立を認容し、主文のとおり審判する。

(家事審判官 田中隆)

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